10-4. きじ馬
平成20年(2008年)の春、福岡市立博物館で「きじ馬」の企画展示があった。そこには、これまで見たこともない「きじ馬」や「きじ車」が展示されていた。「きじ馬」と言えば人吉、人吉の玩具と言えば「きじ馬」しか知らない筆者にとっては、まさに「目からうろこが落ちる」の心境であった。そのときの感動を思い出しながら今回は、郷土の玩具である「きじ馬」、または「きじ車」についてのヨケマン話である。
「きじ馬」とか「きじ車」というのは人吉だけのお土産かと思っていた筆者にとって、人吉以外に、大分県や福岡県でも製作されていることは驚きであり、多良木産の「きじ馬(車)」もあったことなど全く知らなかった。「きじ馬」や「きじ車」には三つの系統がある。一つ目は大分県の北山田系、二つ目は福岡県の清水(きよみず)系、三つ目は人吉系である。その代表的な「きじ馬」や「きじ車」の幾例かをご覧いただこう。画像は断りのない限り、福岡市立博物館展示のものである。
図1. 北山田の「きじ馬」 | 図2. 小鹿田の「きじ馬」 |
図1は、北山田系の「きじ馬」で、大分県玖珠郡玖珠町(くすまち)の北山田の「きじ馬」である。図2も北山田系の「きじ馬」で、大分県日田市源栄町(もとえまち)皿山(さらやま)の「きじ馬」である。
筆者が「目からうろこ、、、」だった最初は、この「きじ馬」であった。よく見慣れていた人吉の「きじ馬」とは似ても似つかぬ形と色合いであったからである。一番の驚きは、色彩がなく背中に「鞍」のような何かが載っていて、下向きの顔がついていることである。こんな特徴については後で詳しく述べることにして、北山田系のやはり変わった「きじ馬」や「きじ車」がある。
図3. 吉井の「きじ車」 | 図4. 北野の「きじ車」 |
図3は福岡県うきは市吉井町の「吉井のきじ車」であり、図4は、福岡県久留米市北野の「北野のきじ車」である。先の二例とは異なるところは、背中に鞍のようなものがある点は同じであるがうつむきの顔や頭部がないことである。「吉井のきじ車」も北野の「きじ車」も、彩色も控えめになっているが、頭が小さく尾は長く、胴体はふっくらとして、形は鳥のキジそっくりであり。しかし、先の図1と図2との違いは形だけではない。「馬」と「車」の違いである。「馬」と「車」、このことについても後で詳しくのべることにするが、田舎での筆者は「きじんま」ではなく「きじぐるま」と呼んでいたような気がする。読者諸氏は「きじ馬」と「きじ車」、どちらの呼び名に馴染みがあるだろうか。
図5. 清水寺の「きじ車」 | 図6. 宗像の「きじ車」 |
図5は、福岡県みやま市瀬高町本吉(もとよし)の「清水寺のきじ車」であり、図6は福岡県福津市津屋崎町の「宗像(むなかた)のきじ馬」である。筆者の二つ目の「目からうろこ・・」これらの作品である。背に「鞍」があり、なんと車が四つ付いているからである。四輪の「きじ馬」は福岡県大牟田市三池にもあり、清水寺の「きじ車」とよく似た「三池のきじ馬」と呼ばれものがある。
人吉系「きじ馬」の形や色彩は周知のとおりである。「きじ馬」の起源や込められた願いを知るには、他地域の「きじ馬」や「きじ車」のことを知るのも近道である。ではなぜ、ハトやカラスでなく、なぜ「キジ」なのか、キジなのに、なぜ「車」や「馬」の名があるのか、キジは二本足なのに、なぜ、四輪があるのか、人吉系のきじ馬は子供が跨って乗れるほどの大きいものもあるが、これはもはや遊具なのか、最大の謎はなぜ、人吉系の「きじ馬」の頭には「大」の字が書いてあるのかなどである。
図7. きじ馬の「大」文字 住岡忠嘉作 | 図8. 男の子の額の「大」文字 |
人吉球磨地方の「きじ馬」の特徴は、図7に例示するように、頭頂部に「大」の文字が書かれていることである。これには二つの説がある。一つは、人吉街道を伊佐市方面に向かうと久七峠に達するが、その手前の東大塚町や木地屋町の街道(267号線)は「きじ馬街道」とも呼ばれている。なぜかというと、今から約800年前の平安時代、平家の落人が都からこの地に落ちのびてきて「きじ馬」を作りはじめたからだという。製作することになった若者は、大塚地区の製作者の家に婿入りして「きじ馬」作りはじめたが、その秘伝を盗んで逃げ去ってしまった。しかしその後、罪滅ぼしと養家への感謝をこめて、「きじ馬」に大塚の「大」の字を書き入れるようになったというのである。しかし、叱られるかも知れないが、「きじ馬」を作るのに盗むほどの高度な技術が含まれているのだろうか。
もう一つの説は、平家の落人が京の都での「大文字の送り火」を偲び、幸運を祈って『大』の文字を刻んだというものである。この説は一考に値する。なぜなら、大文字の「大」という字は星をかたどったものであり、道教や仏教でいう悪魔退治の五芒星(ごぼうせい)につながるからである。
図8は、男の子のおでこに紅で書かれた「大」の字である。関西地区のお宮参りなどではよく見かける風景である。たしか、筆者の生まれ育った球磨郡あさぎり町の岡原地区でも、お宮参りか何かで顔見せに立ち寄った他家の幼児の額に、筆者の母親が指先で紅をつけてやっていたのを記憶している。「大」の字ではなかったことは確かであるが、この記憶もかすかなものであり、このような風習があったことに思い当たる方があったら、ぜひお知らせいただければ幸である。幼児の額に、神の加護を受けていることを示す印の「+」「×」「大」「犬」「小」とかを書き込むことによって、魔除けのまじないとする習俗は、民族学者の柳田国男氏によれば、「阿也都古(あやつこ)」といい、平安時代からのものだそうである。以前に述べた道教に基づく習俗の一つである。道教では五芒星(ごぼうせい)の北極星は最高紳であり、魔除けの呪符(じゅふ:おふだ)として伝えられている。五芒星は図9に示すように、漢字の「大」である。関西地方のお宮参りなどで今も行われている幼児の額の「大」文字書きは、昔はかまどの墨で書いたとのことである。難を避け、健やかに成長することを願った親の願いが人吉の「きじ馬」にはこめられていると筆者は思う。
図9. 五芒星と「大」の字 | 図10. 五芒星の旧陸軍帽章 |
明治の初期から昭和の太平洋戦争直前まで、帝国陸軍の将校准士官が礼装時に着用する正衣の正帽には五芒星が刺繍されていた。また、図10のように、大将から兵卒まで、大日本帝国陸軍の軍帽は五芒星であり、魔除け、弾除け(多魔除け)の意味をこめていた。
この「大」の字を「きじ馬」の頭部に書き込む例は大分県の北山田系や福岡県の清水系にはなく、人吉系の「きじ馬」や「きじ車」だけである。この一番特徴的なことを人吉の「きじ馬」では強調するべきではないかと考える。
大文字入りきじ馬」はなぜ、人吉だけなのか、これは人吉球磨地方が鎌倉仏教文化の地であり、仏教でいう悪魔退治の五芒星思想や八代から伝来した妙見信仰、それに中国の道教思想に基づく五芒星信仰が根付いていたためであろう。
改めて、人吉以外の製作地のもので、キジによく似た「きじ車」を紹介しよう。図11は福岡県うきは市の「吉井のきじ車」。図12は、福岡県みやま市瀬高の「清水寺のきじ車」である。キジは二本足、四本足の「きじ車」は「きじ馬」がふさわしい。
図11. 「吉井のきじ車」(うきは市) | 図12. 「清水寺のきじ車」(みやま市) |